見直そう、ふるさと

見直そう、ふるさと仁尾

見直そう、ふるさと

仁尾の人形芝居

県下の人形浄瑠璃は、文化・文政のころから盛んになったということだが、仁尾の場合は今少し早く、明和の頃には中津賀の商家が賀茂神社に奉納した折の人形衣装が、今三野町のさぬき源之丞に保存されている。

管領細川氏の対明貿易による綿座の市が開かれてからの仁尾は、沖の二島を天与の風除けのある港として、船による商いを増し近隣の村々から人の出入りも次第に増して、神人や僧侶の多い浦が次第に活気を加えて、商業の町を形成して来たと思われる。

特に文化・文政の頃から幕末にかけては西讃一繁栄と言われるほどの繁栄ぶりで訪れた京極藩の巡視役から「・・豪買富人多処」と西讃府志に記される程、豪商・富家が軒を並べ、酒・醤油・酢・油、あるいは土佐茶の販売等で資産を増し、京極侯へ多額の運上金や冥加金を献上して、その引き換えに”名乗り名”を貰う商人が続いた。仁尾商人の最も勢いあった時である。

京・大阪との往来も頻繁に、やがては商いぶりも暮しの様も上方風に傾倒し、今日なお暮しの節目や、言葉の端々に馴染んだ昔を残している町である。浪花の華の芸事はいち早く、これらの商人によって仁尾に入って来たことだろう。

奥深い町屋の座敷で旦那が語る浄瑠璃が、番頭や酒蔵の杜氏・台所の女子衆へとうつってゆき、うろ覚えがやがて外題や筋書きに詳しい人が増して来て、さわりの一節くらい誰でも謡える・・こうした事が奉納芝居へ発展したに違いない。

町内、特に中津賀や境目・中ん丁(自治会名)などの旦那衆が浄瑠璃の稽古だけでは飽き足らず、また一方当時の仁尾ではこの新しい芸能に誰彼なしの迎合振りが感じられた時でもあったから、賀茂神社への奉納の形をとって町の人たちへ披露するーこの希いから一座が結成されたのであろう。

境目に有った人形屋の「金恵」(かなえ)の主人を中心に組んだ座が”叶座”だと聞いている。中津賀には他に”松川座”という一座もあり、古江の弁天様関係には”新楽座”などという一座も組まれていたらしい。

賀茂神社の秋祭りまでには幾月も間のあるうちから、淡路源之丞や太棹(三味線)の師匠を入れて稽古に励んだ様子が偲ばれるが、奉納芝居は語るも使うも、すべて町内の旦那衆、しかも木戸銭無料の奉納芝居だったから、十万石の格式と言われた祭礼と共に年経るごとに人気を加えて近郷近在までファンを広げていたらしい。

今、賀茂神社の東にある一棟の納屋、叶”の文字を刻んだ瓦が往時の奉納芝居を偲ばせてなつかしい。(注:今は瓦の葺き替えによって有りません)

加嶺自治会 中井 敬子氏著
平成九年の仁尾町広報誌から再掲載。