賀茂神社の成り立ち

賀茂神社の成り立ち

                           御祭神 賀茂別雷大神  

旧社格は「県社」     原斉木朝臣源吉高が応徳元年(1084)に津多島(現・蔦島)へ勧請

 

延暦13年(西暦794年)に桓武天皇長岡京から山城の国(京都)へ都(平安京)を移されて以来、上賀茂神社下鴨神社の両社は山城の国の一の宮として、京都の守り神・また皇室の氏神様として特別の信仰を受けてきました。

その上賀茂神社の御祭神「賀茂別雷大神」(かもわけいかづちのおおかみ)の御分霊を祭祀するため、応徳元年(西暦1084年)の秋、白河天皇の勅許を得て京都賀茂社の神官・原斉木朝臣源吉高(はら・さいきのあそん・みなもとのよしたか・現在の51代 原 正圀 宮司の御先祖)が鴨の氏人五人とその家族と共に総勢三十三人が、御座船に付船二艘を仕立てて鴨川を下り淀川を経て海に入りました。
途中播磨の国の室津で二泊したのち、庄内の鴨の越に寄港。
そして翌日応徳元年旧暦の九月十四日に讃岐の国・内海の津多島(現仁尾町大蔦島)に到着し、仁保(仁尾)の人々に鳴り物入りの歓迎を受けて、ご分霊は津多島に奉祭されました。
(原家古文書より)

現在の仁尾町

この時、御座船の船頭を務めたのが宮本家の御先祖で、のちに塩飽諸島を治めた人名の家柄です。

京都から供奉(くぶ)してきた鴨の氏人たちは、以来仁尾に永住し、供祭人として政り事を行い、神社に奉仕して仁尾で穫れる豊富な海産物を御神饌として京都へ献納していました。

御分霊が奉斎された六年後の寛治四年(西暦1090年)に、堀河天皇が六百余町の不輸田と九個所の御厨を諸国に定め、京都賀茂両社の神領として寄進されると、その内の一つ、讃岐の国内海(仁尾網之浦)の住人は神人として「櫓棹の通い道・浜」として関料や津料の免除など海上交通の特権が与えられました。
のちの室町幕府の四国管領・細川顕氏が仁尾の神人に与えた禁制常徳寺古文書)に見られるように、後世の支配者もまた神領御厨を保護し、以後大正の頃まで仁尾は海運により発展することができました。

仁尾の人々は御厨の神人として、足利将軍家の内乱に端を発する観応の擾乱(1349~1352)において管領・細川顕氏の水軍に加わり活躍しました。
その戦功により、観応二年(西暦1351年・南朝和暦では正平五年)に細川顕氏によって、賀茂神社は津多島から現在地へと遷宮されました。
同時に海岸だった当社境内の西側は石積みの防波堤が築かれ、修復されながらも現在までその姿をとどめています。

現在の賀茂神社

その後管領・細川頼元によって、当社境内に別当七宝山神宮寺が明徳二年(西暦1391年)に創建され、神宮寺の別当は大寧山不動護国寺覚城院が担っていました。昭和三一年に廃寺となるまで存続し、現在はその位置に社務所が建っています。

神宮寺創建以来、毎年参向される細川家の使者を十万石の格式(と云われる)をもって丁重に歓待したことが、現在香川県無形民俗文化財に指定されている「長床神事」の始まりです。

長床神事初献の儀

神宮寺が廃寺になると本地仏木造聖観音菩薩坐像は覚城院に安置され、賀茂神社にあった鐘楼は覚城院に移築されました。鐘楼は桃山期の建築様式を今に伝えるものとして、現在は国の重要文化財に指定されています。

津多島(蔦島)には今も元宮(沖津宮)があり、毎年秋季大祭の時には神官・年寄(供祭人)・頭人がそろって最初にお参りします。
また大祭にはご神饌として、「コウショウノモノ」と必ず鱧の干物が供えられ、ご神霊は神輿ではなく由来のとおり御神船・北野丸(安政5年(1858)造)に乗って町内を巡幸します。

仁尾町内を巡幸する御神船・北野丸

ご神霊をお見送りした後に長床神事が始まり、ご神霊の還御をお迎えすることによって長床神事は終わります。これら一連の行事は他にあまり類例を見ない祭式となっています。

 

沿 革

平安後期の応徳元年(1084)山城の国(京都)の賀茂大神宮の御分霊を讃岐の国内海(仁尾)の津多島に奉斎された。

寛治四年(1090)堀河天皇が諸国に不輸田六百余町と瀬戸内沿岸に9個所の御厨を定めて京都賀茂社の神領として寄進された。その御厨の一つが当地・讃岐の国内海津多島供祭所である。以後仁尾の氏子は神人として海上交通の特権を得る。

承安元年(1171)源三位(げんさんみ)源 頼政 武運長久祈願のため釣灯篭を奉献される。

弘安五年(1282)地頭・藤原資治 社領を寄進される

延元四年(1339)征夷大将軍 足利尊氏 繁栄祈願所となる。

観応二年(1351)管領・細川顕氏 により津多島から現在地網の浦に遷宮される、また当社神領に禁制を与えられる。

永徳三年(1383)管領・細川頼之 当社神人に教書を下された。

明徳二年(1391)管領・細川頼元 別当神宮寺を創建される、爾来祭礼には毎年細川家の使者の参向があり氏人供祭人が丁重に歓待した。この慣行が後に長床神事となる。

応永二二年(1415)応永二七年 管領・細川満元 神人に教書を下す。

永享六年(1434)管領・細川持之 神人に教書を下す。

文安四年(1447)天霧城主 香川景明 神鏡を奉献。

文明十一年(1479)細川讃岐守義春 伊予の河野氏を討たんと仁尾に兵を集めし時太刀一振りを奉献し戦勝祈願をする。

文禄年間(1592~1596)高松城主 生駒親正 社領を寄進される。

明暦二年(1656)丸亀藩主 山崎治頼 鐘楼を建立。

元禄十二年(1699)丸亀藩主 京極高或 社殿造営。

享保三年(1718)土佐藩主 山内豊隆 参勤交代の砌、初めて当浦より乗船し海上安全を祈願す。以来毎年祭祀料を寄進せり。

正徳二年(1712)多度津藩主 京極高通 石灯籠を奉献。

元文二年(1737)丸亀藩主 京極高矩 井上通女筆の三六歌仙額を奉献。

弘化三年(1846)丸亀藩主 京極高朗 備前長船菊一文字の名刀を奉献。

 

社殿造営の歴史

戦国時代の荒廃から棟札に見える復興時期(仁尾町誌より)

賀茂神社の本殿の写真。

賀茂社本殿

文慶長13年(1608)建立

賀茂神社の拝殿の写真

賀茂神社拝殿

文禄5年(1596)建立

賀茂神社の隋神門の写真

隋神門

慶長15年(1610)建立
寛政12年(1800)再興

賀茂神社の長床の写真

長床

元禄9年(1696)建立
享保7年(1722)再興
昭和4年再興

賀茂神社の御船庫の写真

御船庫

天保3年(1832)改築