禁制(きんぜい)

賀茂神社の古文書と石碑

禁制(きんぜい)

「禁制(きんぜい)」は臨済宗妙心寺派の古刹、常徳寺に所蔵された古文書で京都賀茂社の御厨である仁尾を庇護する目的で、四国管領・細川陸奥守顕氏が観応元年(1350)に当時の支配階級に発した定め書きである。それがなぜ常徳寺にあるか・常徳寺の創建は明らかではないが明徳二年(1391)の橘秀村の田地寄進状に「妙宝寺今は常徳寺と申す」とあることからこれ以前の創建で、細川管領家の支配が及ぶとともに当時武家階級に盛んであった禅宗の寺として改名し、その後しばらくして円通殿(応永8年(1401)完成)が建てられるなど常徳寺は隆盛を誇った。ちなみに常徳寺のあたりの地名を”道場前”と言うがこれは常徳寺に有った禅道場に由来する。常徳寺には中世の古文書が11通確認されており、この中で最も古いのが「暦応3年(1340)の藤原某免田畠寄進状」である。出典:旧仁尾町編纂・仁尾町史

原文

禁制 鴨御祖社領讃岐国 内海津多島供祭所       きんぜい かもみおやしゃりょう さぬきのくに ないかいつたじまぐさいしょ

右、於当社領 軍勢以下甲乙人等 不可致濫防狼藉 みぎ とうしゃりょうにおいて ぐんぜいをもってくだす こうおつのひとら むやみにろうぜきをいたすべからず

若違犯之輩者、可処重科之状、如件  もしたがうもの おかすやからは じゅうかにしょすべしのじょう くだんのごとし

観応元年12月17日 陸奥守源朝臣(花押) かんおうがんねん 12月17日 (細川)むつのかみ(顕氏)みなもとのあそん

 

この翌年観応二年(南朝・正平五年)(1351)に賀茂神社が津多島(現大蔦島)から細川氏によって現在地へ遷宮される。