2021年8月28日
見直そう、ふるさと仁尾
賀茂神社神人(じにん)と嘉吉(かきつ)の乱 嘉吉の乱は嘉吉元年(1441)6月24日に足利幕府6代将軍足利義教(よしのり)が播磨の国人大名・赤松満祐(みつすけ)に赤松邸で殺されたことに始まる一連の騒乱で、この時から足利幕
2018年1月14日
賀茂神社の古文書と石碑
碑 文 仁尾明神 賀茂神社由緒 祭神 賀茂別雷大神 当社は、応徳元年(1084)山城の国(京都)賀茂大神宮の御分霊を畏くも白河天皇の勅許を得、原斉木朝臣源吉高が鴨の氏人と共に讃岐国内海(仁尾)津多島の清地に奉斎された。
新古今和歌集撰者 藤原家隆公歌碑 大嘗祭記念環境整備事業 平成四年三月建立 壬生中納言 光隆乃子 後鳥羽院上皇信任厚 新古今和歌集撰者 正三位藤原家隆 網の浦 波風も 能登可なる世能 春耳あ飛て な
碑文 応徳元年甲子年(1084) 賀茂皇太神宮網浦影向地 天保十一年庚子初夏 宮内小丞賀茂 清谷書 天保十一年(1841)建立 網の浦影向地とは 山城の国賀茂皇太神宮は皇室の氏神であり、神武天皇以前の神とし
碑文工事中
注連石由来 宮司 原 正圀 この注連石は詫間町の鴨の越の入江にあり漁船の通行の邪魔となり大変困っていた、それを聞いた河田安右衛門氏、神社の氏子年寄は相談して塩田忠左衛門氏と石匠木下熊吉に協力を依頼した。秋晴れの大
宝永五年十一月 丸亀藩主若狭守 京極高或(きょうごくたかもち)公仁尾明神賀茂社参詣乃砌(さんけいのみぎり) 雪乃昏 可毛の宮居に 一休み ゆきのくれ かものみやいに ひとやすみ 神すゝ志免や 原乃盈諸 かみすすしめ
碑文 一の大鳥居は宝永3年(1706年江戸中期のころ東山天皇の時代)十一月十日当社神主、第三十六代「原石見守源盈諸(はらいわみのかみみなもとのみつもろ)」がかねて懇意にしていた丸亀藩主「若狭守京極高或公(わかさのかみきょ
2017年10月18日
「禁制(きんぜい)」は臨済宗妙心寺派の古刹、常徳寺に所蔵された古文書で京都賀茂社の御厨である仁尾を庇護する目的で、四国管領・細川陸奥守顕氏が観応元年(1350)に当時の支配階級に発した定め書きである。それがなぜ常徳寺にあ
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