古文書「仁尾浦神人等言上状案并目安案」に見る賀茂神社神人と嘉吉の乱

見直そう、ふるさと仁尾

古文書「仁尾浦神人等言上状案并目安案」に見る賀茂神社神人と嘉吉の乱

賀茂神社神人(じにん)嘉吉(かきつ)の乱

嘉吉の乱は嘉吉元年(1441)6月24日に足利幕府6代将軍足利義教(よしのり)が播磨の国人大名・赤松満祐(みつすけ)に赤松邸で殺されたことに始まる一連の騒乱で、この時から足利幕府の弱体化が顕著になり、のちに十一年続く応仁の乱・ひいては下剋上・戦国時代に入るきっかけとなった事件である。

足利将軍家4代足利義持(よしもち)(義満の子)5代足利義量(よしかず)(義持の子)と続いたが、義量(よしかず)が跡継ぎ無く早世したことにより、管領・細川持之(もちゆき)ら重臣が足利家の護持僧・満濟の勧めに従い、すでに僧籍にあった3代将軍義満の子4人の内から選ぶべく、石清水八幡において籤(くじ)を入れ、それにより選ばれたのが義満の5男で当時天台宗座主(最高位)であった青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)改め足利義宜(よしのぶ)である、征夷大将軍に任じられたとき、語呂(世をしのぶ)を嫌って義教(よしのり)と名を変えた。くじ引きか・と現代の人は思うだろうが当時の人々にとって神意信託を問う真剣な儀式であった。もし重臣たちの合議で決めたとなると賛成・反対が有力大名たちの力関係に変化をもたらし、後々の紛争の元と成り得るので或る意味賢い選択だったと言える。

足利義教(よしのり)は、これにより自分は撰ばれし者として自分の意向は神の意志であると、将軍に逆らうものは神に逆らう者だと強権を振るい家臣の失態には苛烈な処罰を科し、大名家の相続にまで介入した、後花園天皇の父である伏見宮貞成(さだふさ)王(御崇光院)の日記・看聞御記(かんもんぎょき)に魔王と書かれるほどの万人恐怖政治を敷いた。赤松満祐(みつすけ)も将軍に疎まれて自国の播磨を召し上げられるかもしれないと疑心暗鬼になり、家督を息子の赤松教康(のりやす)に譲って早々に隠居した態を装っていた。6月24日に将軍義教を洛中の自邸に招き、饗応の最中に家臣を踏み込ませ将軍殺害に及んだものである。

将軍義教(よしのり)に随行していた細川持之(もちゆき)・山名・一色・京極たち重臣は難を逃れたが、事件の背景(共謀する大名がいるかどうか)が分からず、ただちに赤松満祐に対する討伐軍を組織できずにいた。この間満祐は討ち死に覚悟で追っ手を待ったが追手は来ず、義教の首を持って堂々と自国播磨に帰った。7月11日に山名持豊(もちとよ)を総大将に討伐軍を編成したが、山名は動かず7月28日にようやく京を発し但馬へ向かった。8月19日に摂津の細川持常(もちつね)らが陸路、細川持親(もちちか)が海路から進軍し満祐は守り難い坂本城(姫路)を捨て9月3日に城山城(兵庫県竜野市)に入った、9月10日に総攻撃を受け城山城で赤松満祐が自刃して乱が終わる。

この乱に仁尾神人に対し兵船と兵糧餞の督促があり細川氏の旗下で参戦したことが賀茂神社の古文書・「仁尾浦神人等言上状案并目安案」に見える。また当時の仁尾の自家数が500~600軒とあり往時の繁栄ぶりが窺える。しかし仁尾浦代官の香西豊前の苛烈な督促に、住人が逃散したこと、「於香西者、日本国中大小神祇御せうらん候へ、不可見申御代官者也」と代官の更迭を要求し、督促に応じ「少々在京仕った」と記すなど、当時の仁尾の殷賑と賀茂神社神人にこうした、したたかさと発言力が有ったことが窺える全国的にも中世の貴重な資料である。