父母ケ浜は御厨だった

見直そう、ふるさと仁尾

父母ケ浜は御厨だった

父母ケ浜は御厨だった

三方山にかこまれ一方は海、この盆地のような仁尾は眼前に大蔦島・小蔦島(津多島)天神島(現在陸続き)を天与の風よけとする天然の良港でした。弁天岬と父母峠の間の広大な砂浜の多くは塩田として埋め立てられました。今の父母ケ浜は当時の十分の一ほどでしょうか。 

父母ケ浜に来たなら仁尾賀茂神社を訪れるのはどうでしょう。

二見が浦に勝るとも劣らぬ注連縄をかけた大きな自然石の柱に驚かれるでしょう、伏見稲荷を小さくしたような赤い鳥居の並ぶ境内のお稲荷さんにお参りして写真を撮るのも、インスタ映えするのではないでしょうか、いにしえの神人の活躍を思い描きながら賀茂神社が仁尾に祀られた時からかぞえて、実に千年近い代を重ねた社家の原宮司(現宮司はその時から数えて51代)から御朱印を頂くのも父母ケ浜と併せてすこぶるつきの記念になるとおもいます。

画/ルナ憲一

そのむかし平安時代の応徳元年(1084)に山城の国(京都)賀茂神社の御分霊が蔦島に奉斎されました。6年後の寛治4年(1090)には賀茂社神領の御厨(海の荘園)となり「讃岐の国・内海津多島供祭所」とよばれました。厨(くりや)とは台所の意です。以後仁尾の氏子は京へ神饌の海産物を献納するため賀茂神社の神人(じにん)として海上往来の特権を得ました。

室町時代になると武家支配が強まり伊予河野氏をはじめ西国をにらむ要衝として、仁尾は足利幕府の管領・細川氏の直轄領となりました。細川氏も御厨を庇護する目的でこの地で狼藉を禁ずる旨の禁制(きんぜい)」を出しました。

神人は用船に長けていることから水軍としてたびたび細川氏の旗下のもと参戦しています。その軍功で細川氏によって観応二年(1351)に蔦島から現在地に仁尾賀茂神社が遷座されました。

仁尾の神人は供祭人として京への御供物だけでなく、もちろん他の物産も運んだでしょうから仁尾は物産の集積地となり応永年間には賀茂神社を中心に綿座(市)が開かれ海運によって江戸時代まで西讃一の繁栄をみました。千石船を見たけりゃ仁尾へ行け・近郷の人は仁尾買い物・と言って欲しいものが有ればこぞって仁尾へ来ました。

江戸時代・安政年間のころ丸亀京極藩の家臣・加藤某の藩内巡視の記録「巡封陽秋」戸数千余 豪買富人多処 と仁尾について評しています。